スローモーションで閉まってしまう

さぁらさんがD・ボウイ様(こう呼ばないと叱られるのだ)のビデオ集を
見ながらH氏宅でエアロバイクを漕いでいたのは、夜の12時近くだった。
家の電話が鳴った。
誰だろう、携帯でないこちらの電話がこの時刻に鳴るなんて。
H氏はそう思った。実家からだろうか。
慎重に受話器を耳に当てると、広い空間の背後にざわめきが聞こえる。
居酒屋みたいな、そうでないような。
少しの間のあとに陽気な声が聞こえてきた。
もしもおし、Kです。今どこに居るか分かるう?
おかしい、H氏の知るK氏はもっとトーンが低く、落ち着いた話し方をする
筈である。何かの罠だろうか、と訝しんでいると傍らの携帯のライトが
点滅しているのが目に入った。
どうやらビデオの音量が大きすぎたため着信音が聞こえなかったようで、
2分前の着信を確認するとそれはK氏からのものに間違いなかった。
飲んでるう~♪?
陽気に弾けた声が受話器から聞こえてくる。
いやー、またやっちゃったよお。亀山駅にいまあす。迎えに来てくれると
ほんとおに嬉しいんだけどお。
幸い今宵のH氏は一滴の酒も飲んでいず、すぐ迎えに向かうことを約して
受話器を置いた。やれやれ、あれから10年くらい経つのか。
K氏の酒豪ぶりは誰もが認めるところだが偶(たま)に寝てしまう癖がある。
電車で乗り過ごした先に迎えに行ったことがこれまでに何度かあるが、
亀山は2度目で、たしか前回は約10年前の筈である。夏の暑い時期で、
やはり名古屋駅からJRで寝過ごしたK氏を深夜に迎えに行くと、
駅構内は既に閉まっていてロータリー向いのバス停の傍らに彫像のように
蹲ったK氏が眠り込んでいたのだった。
そんなことを思い出しながら徳永英明の「ヴォーカリスト」をクルマの後部
トランク内のCDプレイヤーにセットする。考え事をしていたせいか、トランクを
開けたその鍵をトランク内に置いたまま、バタンとH氏は蓋を閉めてしまう。
まさに腕を下ろして閉めるとき鍵が其処に或ることにH氏は気づくのだがもう
遅い。勢いのついたトランクはそのままスローモーションで閉まってしまう。
まるで映画タイタニックの冒頭、海に沈んでゆく首飾りの映像のよう。
つづく。
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